大阪市東住吉区南田辺 おくだ鍼灸整骨院 鍼灸師、柔道整復師、薬剤師 奥田洋嗣の紹介

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年少時代

カラダを動かすことが大好き少年で、学校から帰るとランドセルをほっぽりだして日が暮れるまで真っ暗になるまで外で遊んでいました。(当時は当たり前だったな〜)

母親に「いつまで遊んでるねん!!」

「子捕りにさらわれて、サーカスに売られるデー」ってよく怒られたな〜。

どこでもいる「巨人・大鵬・卵焼き」の野球、お相撲、遊びが大好きな少年でした。(ちなみに卵・カマボコは高級品でめったに子供の口に入りませんでしたよ。今からは想像できませんね〜。)

 

東京オリンピック開催。

大空に五色の五輪の輪がジェト戦闘機によって描きだされた映像は今でもくっきりと覚えています。

オリンピックを観戦するために初めてカラーテレビを親父が買った時です。感動的でした。

当時は体操日本の良き時代ですね。

個人、団体共に金メダル獲得 素晴らしいの一言ですね。

バレーボール女子も金メダル獲得。 鬼の大松監督率いる東洋の魔女達の回転レシーブなどもテレビにかじりついて観ていましたね。

陸上のマラソンでは裸足の王者アベベ選手の金メダル、後に自殺された銀メダリストの円谷選手も思い出されますね。
懐かしく思い出される方もおられるでしょう。

重量挙げでは三宅選手の銀メダルも懐かしいですね。

メダルのラッシュ、そして高度経財成長の良き時代です。

にもかかわらず、なぜか?

サッカーにのめり込んでいましたね。・・・・・

ちなみに私のポジションは一貫してバックスのスイーパーでした。

はからずとも、メキシコオリンピックにおいて、オリンピック初出場でサッカーが銀メダル獲得!!になるわけです。

ヤーポン・ヤーポン、ニポッンチャチャチャバンザイ、バンザイ!!

というわけで、小学生の後半、中学、高校時代の前半は釜本・杉山選手に憧れてサッカーにのめり込み、自分達でチームを作り練習したり対抗試合をしたりしていました。

しかし今のように適切な指導者も当然プロ選手もいませんでした。本当に自我自流で練習しておりました。

当然アクシデントは起こりますよね。

たえず外科、(当時は、整形外科なんてシャレタところはありませんでしたね。)に通院し、医師や看護婦さんに「また来たの?」と良く言われていました。

医師は「打ち身・捻挫?なんて。」感じでしたね。

骨折の場合に初めて病人扱いといった感じでした。

外科では血まみれの患者さんの横で、片手間に捻挫、打ち身などの治療を受けていたようにに思います。

それゆえに柔道整復師が必要に迫られて保険適用される経過をたどるということになりました。

皆さんも昔は「ほねつぎ・ねんざ」なんて看板をよく見かけませんでしたか?

今のように「整骨院」なんてシャレタ看板はありませんでした。

我々の先輩達が、当時お医者様から見向きもしなかった、安い保険料金で皆さんの健康に携わってきたという事実を事実としてお伝えしておきます。

そして私達の今の柔道整復師がその恩恵を受けているのです。

単にアンマ・マッサージするところが整骨院だなんて、医師からまた患者さんからも思われないように

努めましょうよ!!

柔道整復業務はシッカリとした立派な医療行為です。

しかし、お医者様の世界においては、世間一般に高齢化社会を向かえ、また一方では、

スポーツ傷害なども盛んになり現在では、整形外科も増えてまいりました 。

その一方では、小児科や産婦人科、脳外科がドンドン減少し一つの社会問題になっています。

時代を感じますね。

これからは耳鼻咽喉科、眼科、皮膚科、放射線科などが増えていくでしょう。

一方私達の柔道整復師の整骨院も専門学校が増設されたのでこれかもドンドン増えますヨ!!

同じように鍼灸の専門学校も増えたのですがどういうわけか、その割に鍼灸院が増えませんね?

何故でしょう?

特に古典的な鍼灸をしている所が増えませんネ!!

少し話が脱線しましたね。スイマセン。

 

大学、就職後

大学時代は合気道の練習に明け暮れ、これでも一応、財団法人合気会2段、社会人になってからは

少林寺拳法を習い始めましたが、拳法は残念ながら1級で止めてしまいました。

昔は硬派だった? 本当はブルスリーの映画の影響? 極真カラテの影響?空手バカ一代、

マス・オーヤマの大ファンだった。・・・・・・・オールドファンはご存知でしょう。

本当はかなりのミーハーだった?

しかし振り返ってみると、今、私が「関節の傷害の治療」の柔導整復師として、東洋医学の真髄と言われている「気の調整」の鍼灸師として日々営んでいるのも不思議な縁を感じますね。

 

◆私が鍼灸師、柔導整復師になったきかけは?

 実は私は〇〇〇の為理由のためと、大ミエを切りたいのですが・・・

流されるままになった。というのが本当の理由です。

ただ,その場,その時に分別し,高い成果,達成感,また次元の違う充実感を味わう努力と行動はしてきた結果、今の仕事をしていると思います。

長くなってしまいますがお読みください。

昭和53年に大学の薬学部を卒業、国家試験にも6月に合格晴れて薬剤師の免許を受け取り、意気揚揚として薬局に勤めましたが、当時、医薬分業はまだまだ先の話で、調剤と売薬だけではとても経営が苦しく、洗剤(当時の洗剤の箱は今からは考えられないくらい大きかった。体積にして約8倍かな?)や、トイレットペーパーなどの販売等が中心で、これでは何の為に薬剤師になったのか?また各種の新薬に対するセミナーに出席しても実社会では何の役にも立たず全くの無駄骨の状態で「人を治すべき医療人の一人として」日々悶々として苦悩しておりました。

その中での漢方薬のセミナーで、当時大阪北逓信病院放射線科部長でおられた柴田良治先生と知り合い、東洋医学にしろ西洋医学にしろ「病人を治すには人の体に触れないとダメだ。」と教えられ、鍼灸師、柔道整復師になる決意をしました。

また一からの出発かと思いました。

「お金も時間もかかるしどうしようかな?」

「いっそうの事、大きな病院勤務に転職し長年勤務すればそこそこの地位と安定も得られるし、社会的にもイイカナ〜?」・・・・・でも結局

昼間漢方専門薬局に勤め、夜間専門学校に通い、昭和56年に鍼灸師になる。その後は

幸運にも当時患者さんに玄米菜食一日一食、一日10キロを走らせ、膠原病などの難病に挑み、漢方/鍼灸の統合診療に取り組まれ千葉県で開業されておられた小倉重成先生と知り合い、厚かましくも先生の医院に住み込み、押しかけ弟子になり、先生の横で見学と鍼灸治療のお手伝いをさせて頂き、私も入院患者さんと共に一日10キロのランニング、雨の日には5000回の縄跳びを毎日実行しておりました。

(ちなみに小倉先生も実行されており、住み込み費も食費も何にもかも、私には一切請求もされず、日々の臨床をご指導して頂きました。感謝。)

そこでの期間は、漢方薬と鍼灸治療の真髄を学ぶ事はもちろんですが、「間違った生き方を変えれば、人は必ず健康になれる。」と言う多くの事実を体験できた貴重な修行期間でありました。

千葉での修行も終え大阪に戻り平野区にて、朝と夜に鍼灸院を開業し、昼間は柔道整復の専門学校に通学し、最後に昭和61年、柔道整復師の免許も取得する。
そして整骨院を併設し、奥田鍼灸整骨院とし診療を続けていました。・・が、

その後現在のこの東住吉区の南田辺に移転するまでは、その平野区にて自費治療のはり・きゅう治療を中心に診療し、柔道整復の保険治療は片手間の補助的な診療形態で、奥田鍼灸整骨院として、診療を20年間以上続けておりました。

その間は、東洋はり医学会北大阪支部(現関西支部の前身)という東洋医学の真髄である経絡治療学会で昭和58年から平成17年12月まで在籍し約21年間在籍しその17年間は役員としてまた副支部長として努めさせて頂きました。

本当にいろいろとお世話になりました。         感謝、感謝

しかし入会当時、わずか18名程度の研究会から現在200名以上の鍼灸師が在籍し活動しており、
鍼灸の研究会では、おそらく日本一の団体まで育てた原動力の、お役に立てたことは、とっても嬉しく私自身にとっても良い経験をさせていただきました。  感謝!!

なぜそんな会を退会したのかは、私自身多いに悩みましたが、

一つは、後輩に路を譲る事。

一つは、次ぎに述べる触圧覚刺戟法という治療方法との出会い。

一つは、その触圧覚刺激法の普及啓蒙。

一つは、自費診療のはり・きゅう治療だけではなく、
     保険診療における運動器疾患の傷害の柔道整復業務の推進。

一つは、会に縛られず、自由な立場で臨床経験を積みたかった。
      
      この理由が一番大きかったのかな?
      
      たぶんそう思っています。

しかし平成10年ごろに今まで全く学んだ事のない画期的な手技療法、「触圧覚刺激療法」という
「関節の機能障害、可動域改善、筋肉、腱の傷害回復」に安全でかつ非常に効果のある方法を
開発されたユニークな小林考誌先生と出会います。

非常に衝撃的でしたね!!大げさにいえば感動的でした。

当時どちらかというと柔道整復師の用いている手技は、やや乱暴的、またどこまで治療か、
どこまでが慰安か分からない部分が多く、その為に私自身が、保険による柔道整復の経営より、
自費治療による、はり・きゅう治療を主体の経営を続けていたという経過がありました。

その後、自分自身で臨床の中でこの方法を試して見てハッキリと効果を確認しまた。
ハッキリと柔道整復業務の関節の傷害に対する、保険診療に対しての自信がつきました。

思い切って運動疾患による傷害は保険診療で診療する事に決心しました。

今はこの柔道整復師部会の末席にて普及,啓蒙のお手伝いをさせて頂いております。
ハッキリ言うとまだまだ小さい会ですが・・・・・・・・
・いずれこの方法が医療界の手技療法として主流の方法になると確信しています。

世間一般の〇〇療法などとは一線を引いた理学療法における手技療法です。
今後必ず医学会、理学療法の世界で必ず主流になります。

触圧覚刺激法に興味のある方は小林孝誌先生のご著書を参考に

すでに理学療法士の世界において、少しずつではありますがポピュラーな存在になってきました。

小林先生の指導の賜物で、全国の主要各地の大病院で多くの理学療法士の先生達が
この触圧覚刺激法の手技を使い始めています。

ちなみに柔道整復師が小林先生の実技の講習会を受講するのは、
ナカナカ難しいのですが縁あってありがたい事に、現在、私達の講習会には毎年4回4日間の
ご指導のためにど来阪していただいております。

その他にも触圧覚刺激法の手技の習得と普及啓蒙のために、
「触圧覚刺激法研究会 小林教室 柔道整復師部会」
と称して毎月例会を開催しております。

小林先生のご講演
   
実技1 体幹法

実技2 指の関節

   

実技3

世話人の石川先生と
   

手技療法として大病院内だけでなく、もっと広く私達の身近な治療法として柔道整復師の世界に
もっともっと普及させたいと思っています。

ただ、とっても軽いタッチの為,見た目も大変地味な手技です。

本当に見た目はカイロプラクイック、などのように派手さはありませんネ。

また強い刺激の好まれる方には,必ず不満は残ります。

治療として効果は抜群に良くとも、現状の「整骨院の経営的な手技としては」には、
苦しい? かな?と思っています。

柔道整復師の業界で普及できるかはマダマダ先の話だと思いますが本物、良い手技療法は、
必ず生き残り、必ず発展すると信じております。

3人の先生方の影響と東洋はり医学会のおかげで現在の私の治療体系が出来上がったように思います。

最初の鍼灸院のみの開業から20年以上の歳月が経過してしまいました。
(10年一昔といいますが二昔以上もこの仕事に従事しているのも何かの因縁めいたものを感じます。)

 

そして平成17年9月20日に、

 保険の治療における柔道整復の西洋医学的アプローチ、は触圧覚刺激法を中心に、
 各種の手技を用い、関節・筋肉・靭帯などを健康な正常な状態に回復させるべくに治療し、

 保険の利かない疾病に対しての自費治療には、
 本当の東洋医学のはり・きゅう治療により神経痛などの痛みはモチロンのことアトピー性皮膚炎、
 喘息などのアレルギー疾患を中心に診療をおこなうために、

この東住吉区南田辺に心機一転し、おくだ鍼灸整骨院を開院致しました。

今思うに人生の一つ一つの節目に、良き先生に出会い、何かの糸にひかれるように、流されるようにして現在に至っております。

柴田、小倉の両先生はもうこの世にはおられません。     合掌

小林先生とは今も色々とご教授して頂いております。多くの先生との出会いと多くの患者さんとの出会いが今日の私があります。本当にありがたいことだと思っています。      感謝

これからもまた多くの人達との出会い、またのわかれもあるでしょう。

頑張り多くの人のご希望添えられる治療家として研鑚努力し治療技術の向上はモチロンの事ですが、人間的にも大きく成長していきたいと思っています。どうぞ宜しくお願いします。

 

少しタイムスプリップ・・・・・・悔しい思い出

 小学生の頃、毎年右耳に中耳炎を繰り返し、医者に長い間通院したのにもかかわらず治らないどころか、 徐徐に聴力が落ちてきました。幼稚園の年長児から小学3年生の夏頃まで約3年間以上もまじめに通院しました。

そして、ついに,右の耳が聞こえなくなってしまいました。

医師からは、何の説明もなく,「なくなった聴力の回復はありません」と告げられました。

「エーそんなバカな!!なんでやねん!!」

治療も毎回耳の掃除と何かの薬をつけるだけの治療を繰り返すだけで何の説明もないまま,もっと良い病院を紹介するわけでもなく、アドバイスもないまま、3年以上ただ、漫然と通院させ悪くなってから
「治りません。」

「そんなんおかしいやろ!!」

幼い心の中にも悔しさと、怒りがグシャグシャに入りみだられた感情になった事をいまだに鮮明に、
覚えています。

 現在、私の右耳の聴力は全くゼロです。

幸いな事に左耳の聴力は異常がなく正常ですので、生活には全く支障がありませんが、
海水浴の際には絶対に顔を水の中には漬けません。
またカゼを引いたりして、「耳に何かあったら?」 
不安はそんな時に芽生えます。
「将来左の耳も聞こえなくなったら?どうしょう。」
少しでも左の耳に違和感を感じたら、
「将来左の耳も聞こえなくなったら?どうしょう。」
とか随分心配します。

幸いに、いまはこんな仕事に従事していまうので、知識も豊富になりましたので、あまり心配はしませんが、正常な左耳には大変に気をつかっております。

こんな私の経験から、当院の基本方針1に、不安・疑問・不満は「お話ください」と言う項目があります。」

 私に解決の出来ないこともたくさんあると思います。そんな時には、他のお医者様を紹介し、何か良いアドバイスを与えることは出来ると思っております。

安心と希望と良き方向性を患者さんに与える事が出来れば、治療は成功したと思っております。

末永いお付き合いを大切にしたいと思っています。これからも宜しく。


大阪市東住吉区南田辺1−9−43                  奧田鍼灸整骨院 奥田洋嗣



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